
色とりどりに美しく壁面を飾るステンドグラス。 微妙な色調や高度な表現技法によって生み出される光の世界は、ときに息を呑むほどの迫力をもって私たちの胸に迫ります。教会のステンドグラスには聖書に出てくるお話を題材にして製作されたものが数多くあります。ステンドグラスには単に装飾的な意味だけでなく、聖書の教えを絵によってわかりやすく伝えるという目的もありました。

聖霊を表す鳩
旧約の時代、鳩は祭儀的に清い鳥とされ、神への供え物として捧げられました。また、イエス・キリストがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときには、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイの福音書3:16)と聖書に記されています。

子供たちを祝福する
イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(ルカの福音書18:15-17)
主は幼子の特徴をとおして神と出会う救いの道を示されました。疑い深く、自己の自由選択権を主張する大人たちに対し、火でさえも疑わずに興味をもって触しまう子供たち。すなわち神に救われる道は「ただ信じなさい。そうすれば救われます。」をおいて他にありません。幼子のように神の言葉を素直に受け入れ、信じなければ決して救いに至らないというお話です。

善きサマリア人の喩え話
宗教学者の「何をしたら永遠の生命が受けられますか?」という質問に、主が聖書のお言葉、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。(レビ記19:18)を引用したうえで、善きサマリア人の喩え話をもってお答えになりました。
お話の登場人物のうち、強盗の被害にあった男性を見捨てた祭司とレビ人は、神に最も近く、神に立派に仕えていると自負している人々を、また彼を助けたサマリア人はイスラエル人とは敵対関係にあった人を、それぞれ表しています。そして主は、被害者を助けたこのサマリヤ人こそが聖書の教えを実行した人だと指摘されました。
つまり、あなたが敵対心を抱いている人たちを自分自身のように愛し、許すことが永遠の命を受ける道なのです。その愛はまさしく神の人間に対する愛です。主の十字架の出来事は、人間の罪を許す神の愛の行為です。主イエス・キリストを信じる信仰の愛をもってこそ、善きサマリア人と同じ愛を隣人に与えることができるのです。

思い悩むな
「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って心配するのはやめなさい。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。あなたがたは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイの福音書6:25-34より)
人間は創造主への依存から離れて自己責任を負うようになりました。これをキリスト教では「原罪」と呼んでいます。その結果、すべての人は、心配や悩みや不安といった内から湧き出てくる敵の攻撃に死ぬまでさらされることになったのです。主は自然界の花や生物の営みをとおして、創造主なる神に立ち返って救いを得なさいと呼びかけられました。

花婿を待つ十人の娘の喩え話
夜中に「花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がした。娘たちは皆起きて、自分のともし火を整えた。愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を分けてください。私たちのともし火は消えそうです。」しかし賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それよりも店に行って、自分の分をお買いなさい。」愚かな娘たちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。(マタイの福音書25:1-13より)
花婿は主イエス・キリストを表しています。花嫁は信仰者です。このお話は結婚式に花婿を待つ花嫁たちの備え方をとおし、信仰者たちの心構えを問うた喩え話です。
世の終末に、主はクリスチャンを迎えるため再びこの地上に来てくださると約束されました。この約束を確信し、クリスチャンは希望をもって日々の信仰生活を送っています。その日にはすでに死んだ聖徒たちは呼び覚まされ、生きている信仰者たちはそのまま主とまみえることができるという恵みをクリスチャンはいただいているのです。このお話は、花婿を待つ態度の違いをとおして、主のしもべであるクリスチャンとして、再臨の主を待つ忠実な信仰を持つようにとの主の警告のメッセージです。

イエス・キリストの生涯
礼拝堂の階段室に飾られた4面のステンドグラス。いずれもイエス・キリストの生涯の出来事が描かれています。

イエスの神殿奉献
シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこのしもべを安らかに去らせてくださいます。私がこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に整えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」(ルカの福音書 2:22-35より)
生後40日目、初めての長子を神の御前に捧げるため、マリアとヨセフはイエスを連れて神殿にやって来ました。祭司シメオンはこの乳飲み子をひと目見るなり、それがキリスト(=救い主)であることを悟り神を誉め讃えました。

キリストの洗礼
イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて御霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がした。(マルコの福音書1:1-12より)
イエス・キリストが洗礼者ヨハネよりバプテスマを受ける場面です。

ゲツセマネの祈り
いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そしてご自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のとおりにしてください。」すると御使いが天から現れて、イエスを力づけた。(ルカの福音書22:39-54)
最後の晩餐の後、オリーブ山で祈り続けるイエスと、彼を捕らえようと集まった群集

十字架の道行き
ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにしたが、イエスの罪を見つけることができなかった。しかし民衆は「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫び続けた。そしてとうとうピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、刑場であるゴルゴタという所へ向かわれた。(ヨハネの福音書19:1-17より)
ローマ兵に捕らえられ、無実の罪で死刑を宣告された後、自ら十字架を背負って歩くキリストの姿